昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

其の流派に辟する人に於いては

 温かいですなぁ。本日お茶をするに向いている日だというのに、お茶はしていない(淹れてはいた)。

 

 んーで、タイトルの全文は「其の流派に辟する人に於いては、無智無学の人よりも国の為に大害を生することをしるへし。」です。浜田彦蔵の言葉なので、知っている人もいるやも知らん。彼を知らない人で興味が湧いたら調べてみて下さい。ここでは敢えて語りません。

 

 クーリエ・ジャポンという国際情報誌がありますが、今月号にフランス在住の少女の話が載っています。それを読んで、彼の言葉を思い出した次第。

 その記事は、フランスに住む15歳の少女が、イスラム国(の情報担当者達?)に洗脳され、それが解けるまでを書いたものであり、興味深かった。自分の信仰は多神教を下地として形成されているので、一神教に対しては一種嫌悪感のようなものはあるが、信仰そのものやその価値観は否定しない。考え方の存在自体は認識するよ。あくまで認識はな。

 

 イスラム国という過激思想集団と普通のイスラム教国との境界線での小競り合いが日に日に凄い事になっている。と感じている。 舷々相摩(げんげんそうま)すといっていい状態? 

 一番迷惑なのはその領域で普通に暮していた人々だと思うのだが、アレラの存在はイスラム教やその信者達を貶める行為以外の何ものでもないと思う。特にニュースを鵜呑みにしてしまう人にとっては、「イスラム教=悪」という概念がしっかりと植えつけられたことと思う。

 イスラム教と接点があるわけじゃあない地域に発信されるメディアだと、自国メディアか欧米系(キリスト教国)のメディアが多い。どんなバイアスが掛かっているか分かったものじゃあないからね(そうかといって調べるわけにもいかないが)。

 

 人に必要とされている感覚がとか、生きている実感が欲しいとか、義侠心が抑制出来なかったとか、はたまたヒーロー願望かメサイヤ・コンプレックスか知らんけど、そういったものを求めて「局地」に飛び込む気持ち、理解は出来んな。

  ただ、そういった道を選択する心理、少しは分からなくもない。

 戦闘行為というものが実力と実力のぶつかり合いでなくなった以上、 運の下で戦場で生き抜くよりは、平和な状況を生き抜いていく方が大変だと思う。実際両方を経験したことがないので単純な比較は出来ないが、この先何十年も疲弊してゆく心身を感じながら、同じ事をずっとやり続ける。人に因ったら「何の刑罰だ?」と叫びたくなるようなそんな現実を目の前にしていることに比べれば。

 

 つーか、病み上がりににコムズカシイコト考えるんじゃあないね。唯でさえ莫迦なのに

(笑)。

 ちょっと枝葉を広げ過ぎた感があるので、まとめ。

 ⇒イスラム国の存在って、本来の宗教の目的から外れていないか?そもそも宗教の本来の目的って、個人のみに約束された幸福を実現させるものなのか?

 掲載されている記事を読んでそう思った。

 

 ちょっと強引かもしれぬが、まぁ許せ(←誰に言っている?して、偉そうに言うんじゃあない)。

 

 つらつら駄文を重ねておいてこのお茶画像はないだろうよ・・・・・・。

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 お茶は鳥取県は大山のオーガニックティー。

 お茶請けは見ての通り。母よ有難う!