昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

饅頭

 ネタというか食文化について馴染みのあるものがちょいと溜まったので、打ち出してみようかと・・・・・・。

 題材はタイトル通り。えっらい説明がへたくそなので、読むと疲れます。

  ここに日本オリジナルのあんぱんの話を持ってきても良かったのだがそれはそれで長くなるので、今回は饅頭だけで。

 

 饅頭とくれば、先ず諸葛孔明が生贄の代わりとして荒ぶる川に人頭を模して肉入りの包子(パオズ)を投げ込み、それを鎮めたという話を思い浮かべるかと。だから中国では割れた饅頭のことを、饅頭が笑ったと言い換えるそうな(表現としては古い言い回しらしい)。

 

 じゃあ饅頭は中国大陸起源かというと、違う。ルーツは現在のイランにある。粉食文化と共に中国大陸の北西部に伝わったのがやがて大陸に伝播した。というのが正しいそうです。つまりお煎餅の起源と同じ。

 日本に饅頭が伝わったのは鎌倉時代禅宗と共に入ってきた。禅宗寺院を中心に寺院では朝晩2回の食事の間に取る軽食がある。それは点心(てんじん)と呼ばれており、その中に饅頭及び後々和菓子や食となるものの前身が含まれていた。

 『庭訓往来(ていきんおうらい)』や『尺素往来(せきそおうらい)』には饅頭や羊羹の他にうどんやきしめん、そうめん、きりむぎ、葛きりの原形、葛饅頭の原形などが見られる。

 

 禅宗では肉食が禁じられていたので、見立て料理として植物性の材料が使われた。小豆が使われたのは古来から慣れ親しんでいたのと、その色にあると見る。

 小豆色という色もあるが、物凄く大雑把に見ると小豆は赤色の食べ物に分類される。赤は呪術的な色とも厄除けの色ともされている。

 

 饅頭というと現在生地はほぼ小麦で作られているかと思うが、当時は蒸餅(じょうへい)といって米粉を蒸して作ったものが主流だった。

 鎌倉時代にお茶と共に石臼(ひき臼)も伝来しているのだが、当時使えたのは寺院くらいなもので、農家が使うようになったのは室町時代も終わりの頃。一般的に普及したのは更に遅く江戸時代の中期頃。

 

 米が主食である日本は、ケの料理(普段食べる物)は粒食。ハレの料理(お祝いや特別な席)は粉食とされていた。米と異なり小麦は粒食が出来ないからだ。つまりその分手間が掛かる。

 日本に限らず「御馳走=手間ひま掛けた料理」という概念がある。従って普段点心として食べる饅頭の生地は小麦製ではない。

 鎌倉時代に寺院以外で食べられていた饅頭は、肉や野菜が入っていたようだ(今いう肉まん)。大きさの記載は見なかったが、中央に小刀で十字を入れて食べ易くしてから食べていたとのこと。その為饅頭は別名を十字と言う。

 「十」には「除禍求福」という意味もあり、一種のまじないも兼ねていた模様。

 

 砂糖の入っている甘い饅頭は鎌倉時代にはなく、登場するのは南北朝時代となる。前述の二書には砂糖を使ったものは砂糖羊羹、砂糖饅頭とわざわざ断り書きがしてある。当世砂糖は輸入品のみで、贅沢品や贈答品だった(平安時代では薬でした)。

 室町時代には輸入量も増えて徐々に饅頭にも使われるようにもなった(江戸時代に輸入量が格段に増えたが為、財政が傾いたとも言われている)。

 若しくは甘味をつけるのに甘葛(あまづら)を使っていたこともある。
 平安時代には削り氷(ひ)、つまりカキ氷のシロップに使われたり練り香を作るのに使われた甘葛だが、室町時代の後期には姿を消す。輸入物の砂糖を使うのと作るのとの労力比較結果というところだろうな。


 甘葛とは何ぞや?という疑問が、平安文学ブームを巻き起こした江戸時代に湧き上がり、再現が見られたが結局分からず。これが現代に甘葛を復活させるヒントや障害になったのだが、冬季の蔦の汁液ということが突き止められている。要はメープルシロップと同じ。但しメープルシロップの旬は初春からだけれどね。
 話が逸れたので元に戻す。

 

 砂糖が使われる前に小豆は餡として使われていたが、当然甘くなく塩味がつけられたりさらし餡だったりしていたようです。その為鎌倉時代末期から室町時代末期まで、特に公家の間で酒の肴として出されていたことが分かっている。

 現に北条時頼が足利左馬入道の所に立ち寄った時、饗設け(あるじもうけ)に出された酒の肴に掻餅(かいもち)が出されている。他には打ちアワビと海老が出されている。

 

 饅頭とは少しずれるが、掻餅は塩味のある小豆餡の入った餅で、ぼたもち・おはぎの前身。間食用に作られることもあったようだ。掻餅がぼたもち・おはぎに移行したのは戦国末期から江戸初期頃。

 酒の肴として一度に全て出されたわけではなく、一献目に打ちアワビ、二献目に海老、で三献目に掻餅が供されている。

 ※ 饗設け・・・・主人として客をもてなすこと。

     打ちアワビ・・・・アワビを細長く削り干しながら打ち伸ばした乾燥品。するめのように食べる。

 

 饅頭の伝来として有名なのは、 1240年または41年に宋から帰朝した聖一国師(しょういちこくし)が酒皮饅頭の作り方を伝える。というもの。酒皮饅頭は酒素(さかもと)饅頭とも言われる。甘酒で醗酵させた生地で作るとも麹を使った醗酵させるとも。

  聖一国師円爾弁円(えんじべんねん)とも言いますが、彼が博多に滞在した際、茶店の主人である栗波吉右衛門(くりなみきちえもん)に製法を伝えた。で、茶店の屋号が虎屋だったので、虎屋饅頭または虎屋系酒饅頭と言われる。

 ここの看板の実物を見た事ありますが、結構立派な看板でした。

 

 もう一つ有名な説がある。

 こちらは1341年または49年に建仁寺の竜山禅師が中国人の林浄因(りんじょういん)を伴って帰朝。

  林浄因 が奈良で塩餡(小豆の漉し餡)を包み、膨張剤で膨らませて奈良饅頭を作ったのが始まり。

  林浄因は後に帰化し、その子孫が塩瀬を名乗ったので、こちら塩瀬饅頭または塩瀬系薬饅頭と言われる。

 

  奈良の漢国町には漢国(かんこう)神社なるものがあり、4月19日の大祭には饅頭祭りが行われるようだ。

 場所が奈良だったのは、当時に都に近かったというのと、奈良は古来文化や物流の中心地だったので、渡来人は住みやすくまた持ち帰った文化なども浸透し易かったんだと思う。

 それだけでなく、当世河内の小麦粉は粘りがあり、饅頭作りに最適。丹波では質の良い小豆が取れるという地理的条件もあった。その為饅頭の評判は素晴らしく、足利将軍(何代目か不明)から「日本第一饅頭処」という称号まで賜ったとある。

 あと、足利将軍家を通して宮中に広まったとも。

 

 尚この後江戸期に塩瀬系は関東に、虎屋系は関西に広がることとなる。

 

 以上。

 こんな感じだろうか。字は金釘流だが、手書きならもっとうまくまとめられたと思う。 

 ここまでお付き合いして下さいました方は有難うございます<(_ _)>

 

 本日のお茶。

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 お茶はポルトガルの紅茶。

 お茶請けはスーパーのベーカリーコーナーで売られていたもの。

 右上で食事していた兄貴に、「Qすぁん、共食いですか?」と!やかましいわ!!(Q⇒キラズのあだ名。昔のあだ名はお化け)