昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

春日大社展に行ってきた

 国宝ざっくざく♪てなわけで往ってみた。期間限定で国宝の鎧が四領揃う事だしな。ついでに16日に麿さんが行った。博物館に一人で行ったのは初めてだったそうな。ただ、平日だった所為かそれとも運が悪かったのか、閉口するくらいマナーの悪いのが溢れていたとな。で、常設展の埴輪に癒されていたとのこと。

 

 入る前に思ったんだが、春日大社が発する気というか形成している結界って新緑を思わせるような緑色なんね。手触りとしては金沢八景の琵琶島の近くにある瀬戸神社に似ている。色は違うけど。

 

 かなり宣伝していた割りには混んでいませんでしたね。入るまで並ばなかったし。で、ささっと上に上がって即奉納された武具のコーナーへGo!
 何でか知らんけど、どうしてこう武器や防具の展示のコーナーってやたらと喧しいのが多いんだ?

 

 全体の構成は以下。
 第1章 神鹿の社
 第2章 平安の正倉院
 第3章 春日信仰を巡る美的世界
 第4章 奉納された武具
 第5章 神々に捧げる芸能
 第6章 春日大社の式年造替

 

 国宝はずっと展示されることが先ずないので、かなり展示替えの激しい展示でしたが、足繁く通った人もいるんだろうなぁ。などと思ってみたりする。
 藤原氏氏神だが、皇族とも縁(ゆかり)深い神社でもあるからね。なのにもかかわらず、そういった知識が全くない人達がいてびっくりしたさ(60代くらいの男性グループ)。

 

 第1章と第2章の間には、社の勤め人でも関係者しか立ち入れないような場所を1/1スケールで一部再現していました。瑠璃灯篭がとても綺麗だった。一体誰が考案したんだろうか?展示されていたのは鎌倉時代のものだそうで。

 

 展示品(奉納品)の年代幅は平安時代から19世紀の江戸時代まで。復元模造品も含めると平成15年(12引くと西暦下二桁が出るぞ)。第3章以外は殆どのものが春日大社蔵。南北朝時代のものも結構多い。
 翻って一番少ないのは安土桃山・戦国時代だろうか。戦国時代よりも更に実力主義にして日和見主義が酷かった南北朝時代ではあるが、遺品が多いのは寺社の権力や力はそれなりに保たれていたからなんだろうと思う。16世紀以降はキリスト教も入り込んできて宗教戦争ですか?と思える状況も結構あるし。あ、語尾が現在形なのは、未だにそういったトモガラがいる上に平気で冒瀆行動をしてのけるから。信仰云々というよりは文化財に対する冒瀆行為。

 

 奉納品(主に曼荼羅)と共に思想の歴史も追えるようになっています。
 産土神(うぶすながみ)信仰、神道仏教密教含む)を基材として本地垂迹(すいじゃく)説が混ざり合い、神仏習合の形になったりして、日本の宗教観ってどれだけ緩いんだろうか?と思いました。尤もその緩さは悪くはない。
 第2章は当時の生活用品や様式なども垣間見られるので、平安時代ってそれなりの貴族は雅やかな世界に身を置いていたのだなと感じる。物凄っいストレス社会だったのだろうけれど。ついでに箱や鏡、琴の蒔絵などを今見ても違和感がない。
 あと、平安時代奈良時代よりも庶民の生活記録などが現在に残っていないので、そういった面では意外に研究は進んでいないのだそうだ。逆に考えると土壌や気候の諸条件に加えて、幾度の戦火を潜り抜け、場所によっちゃあ花火師の手を逃れてきたものがこれだけ残っているのを考えると凄いとしか言いようがない。
 弓や矢の奉納品は見ていて面白かった。ついでに近くで見ていた子供二人(男女)の会話もツッコミどころ満載で面白かった。女の子って小さい頃から現実的な子が多いんね(笑)。
 武具関係の展示では弓は兎も角としても、矢って殆ど展示されないんですよ。鏃しか残らないから(日本の土壌が酸性なため)。以前弓矢の歴史展に行った時、よく残っていたもんだねと思った記憶がある。発掘及び展示場所が群馬だったのだが、残り易い土壌の地域があるんだろうかね?

 

 第3章は曼荼羅や像がメイン。普段見られない角度から見ることが出来るのは嬉しい。
 曼荼羅はスコープを用いてじっくりと観賞したかったという願望があるものの、スコープは持っていないし、何よりも他の鑑賞者に迷惑が掛かるので全体をさらりと俯瞰するような感じで観賞しました。

 修復に皇后陛下が育てられた小石川丸という蚕が使われたという説明があったが、現在主流となっている絹糸とは異なりそんなに量が取れない。触り比べたことがあるのだが、その糸の細さや滑らかさは日本の風土気候になっているのだなと思える手触りだった。
 
 一度全体構成を把握した第4章は、腰を落ち着けて観賞。
 奉納された大鎧や胴丸って、奉納者の体格に合わせているんだろうか?もしそうなら去年国宝の仲間入りした黒韋威(くろかわおどし)胴丸着用者はどれだけ華奢や!?ちなみにこの胴丸は、消耗品というか取り替えられるのが当たり前とされている括り紐(?)が当時のままだというのが貴重なポイントなのだそうだ。


 赤糸威大鎧は2領のうち1領は奉納用。つまり未使用。2領並べてみるとbefore/afterてな感じで色の褪め方や紐や威し部分の劣化の具合が興味深い。
 源平合戦以降大将及び同等ランクの人は赤糸威を纏う習慣があるようだが、確かにこんなの戦場で着ていたら目立つ。余程信頼の厚い秀でた部下や自身が強くないと、こんなの纏えんよ。余談だが『太平記』では護良親王新田義貞が着用している描写がある。他には脇屋義助が青褐(あおかち)の大鎧を、楠正成が黒韋威の胴丸を着用している描写がある。他にもあるが、結構多いので今思いつただけを書いてみた。
 
 防禦の要だが、それと同時に死装束でもある大鎧は彫金細工も豪華♪奉納用もさることながら、実用されたものも着装者の意に沿った(?)ものが成されている。
 鎧も胴丸も草摺(くさずり)は4枚だったかな?色(威)にしても今回目にしたのは赤と黒のみだが、裾濃(すそご)や有名な萌黄匂(平敦盛が最期に着用していた)、小桜威、科皮(しながわ)威、襲の色目を取り入れたものなど色々ありますが、戦場に機能美以外の美を持ち込むという感覚が近代戦以降とは違うのだなぁと思った。近代戦にもないとは言わんが、何か下種(←平和ボケ丸出しですのぅ)。


 大鎧も胴丸も鎌倉時代室町時代に作られたもの。この時代は白兵戦の展開の仕方、武器の変容などと相俟って色々と過渡期でもある。この時代は基本は太刀だが、この後徐々に打ち刀が増えてくることになる。太刀が完全に姿を消したわけじゃあないが、隅の隅の方に追いやられる。幕末に進むにつれて、(南北朝時代のような)実戦に耐えうるような実用性の高い太刀を復活させた刀工さんが現れるまではね。
 太刀は麿さんオススメということもあり、迷惑だと分かっていても手に取れないなりの観賞方法を展開してきた。光の反射を使うので長時間やっていると腰痛めるのが難点だが、数振りほどだったので問題なし。
 刀身と刀装、つまり中身と外見が時代違いになっていることが多いのだが、ここではそんな違いはなかった。あっても1世紀くらい。
 ・・・・やっぱぎらぎらと飢えた感じの古青江派はいいねぇ~。

 

 第4章と第5章の間には記念撮影のコーナーがあり、吊り灯篭を撮影することが可能。フラッシュは禁止だが。
 全てではないがデザインが個性豊かというのと、たまたまデジカメを持っていっていたので色々と撮ってきた。ブログにはアップせんけど。

 

 第5章の芸能は競馬、相撲、舞楽、伎楽、能といった元々神事の側面を持つ芸能関係について。
 大した知識も持ち合わせていない。舞楽は右方と左方で演目が違うとか、揃える色調が違うとか高校の古典で習うことくらいしか知らん。あと、元々平安時代を中心とした落書きをしていたので、装束を見て演目やその元となった故事を予測出来る程度。


 中国から伝播した舞楽だが、本家本元には残っているんだろうか?ちなみに日本とベトナムには多少形は変わったが残っているので、2、3年位前に日本で1300年の時を経ての合同コンサートが開催されましたね。
 伎楽の面は中国や朝鮮半島には残っておらず、残っているのは日本とドイツの博物館だけとのこと。但し後者の所蔵数は一面。・・・・何で?

 

 最後の章は式年造替について。所謂リハウス。一体何億掛かるか知らんけど。
 室町2代将軍こと足利義詮(よしあきら)の御判御教書案なるものが展示されていた。初代と3代目が強烈であったが故に目立たない人。直義(尊氏の弟)と仲が悪かったことから、どちらかというとバサラ傾向にあったと思われる。名前を書かせると言遍(ごんべん)の隣を大抵の人は全と書く。王の上は入なんだけどね・・・・(歴史の引っ掛け問題によく使われるのだそうだ)。
 
 最後に陳列されていたのが狛犬と獅子。狛犬は高麗犬とも書くが、一般的ではない。二軀一対で、鎌倉もしくは室町時代のものなのだが、並べてみると時代の違いが何となく分かる。追求するときりがないから思うだけにしておくが、起源は一体どこ?起源から伝播方向は?何の為?何で獅子と犬?個人的には謎が多い・・・・・・。
 
 この後は常設展行って庭園で写真撮ったりしていました。惜しむらくは曇天だったこと。ま、仕方あるまい。