昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

夏には癒しフェアというのがあってだな、秋には癒してぃーずというイベントがあったはずだ

今週のお題「私の癒やし」

 

 タイトルと内容は関連がないよ。

 

 「癒し」ってのをどう取っていいのかいまいち分かっていない自分が書くのもなんだが、何も考えず何も受け取らず、心が灰死している時間が癒しといえば癒しになるんかな?

 分かりやすく書くと、ぼーっとしている時間。

ただ、思考停止とは似て非なるものである。

 

 情報網が発達し、やろうと思えばいつでもどこでも必要ないし不必要なモノが手に入る。

 常に何かに触れている状態って、疲れないんかな?と思う。接触時間が長いと意識していようがいまいが、疲労は蓄積していくわけで、緊張感は薄れていくわけで、遅かれ早かれ自分の位置というのが分からなくなりそうだ。

 

 基底状態が常態なのに、励起状態が常態となったら、そのエネルギーは一体どこから供給するのだろうか?

 物理的には出来るだろうけれど、精神的には?

 どの字の「ヤム」に辿り着くか知らんが、自身がそういった状況を問題視しなければならない所まで来たら、それはある意味不幸なことかもしれない。

 

  二択のみと仮定して、自分にとって自分に合わせて世界を構築していくのと、世界に合わせて構築していくのはどっちが生き易いんだろうかね?

 けど、生き易さと活き易さは相反するものといっても過言ではないと思うので、どちらを選択するかによるんだろうな。

 

 まぁ、御託はいいや。

 お茶を淹れる事は癒しにはなっていないのか?と問われれば、お茶を淹れる事は自分にとっては癒しというよりは鬱予防の習慣のようなものであり、物理的にはお茶の香りに癒されているという副産物的なものはあるにせよ、それとは別の次元の話のような気がする。

 

 そんなわけで本日のお茶。

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 お茶は胡麻焙じ茶(正直濃過ぎた)。

 お茶請けは糠漬け♪キラズケイこと妖怪漬物小僧発動也。

 

 ※妖怪漬物婆⇒母。妖怪漬物姐(ねえね)⇒麿さん。妖怪漬物小僧⇒キラズ。いずれも漬物スキーである。但しキラズは小僧クラス(苦手な漬物があるってこと)。

 愛知県には全国で唯一漬物の神様を祀っているところがあるぞい。

 

 お茶その2。

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 お茶は16年のダージリン、1stフラッシュはムーンダコティー茶園の。

 お茶請けは北海道函館市はアイケーフーズ(シュークリーム専門店ママデコレ)さんのシューラスク。チーズ味。

 自己主張が強くないのでお茶に合わせ易いチーズ味。