昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

沢山サプライズいただいたから

 自分に出来る事って何だろう?

 

 去る24日、ドナルド・キーンさんが心不全で96歳の生涯を閉じました。

 著書をしっかりと読んだわけではないのだが、雑誌などで対談を読んだこともあったし、古典を読むようになってから目にすることや耳にすることが多かった。

 実際に交流にある多くの著名人などが生前について言及しているので、ここではそれには触れないが、日本文学に対する沢山のサプライズ(気づき)を頂いた、一人の日本人として、日本文学に対して一体何が出来るんだろう?とそう思った。

 

 まともというといい方に誤謬があるが、実際古典文学を自分の意志で手に取って読むようになったのって、学校卒業してからなんだよね。

 不真面目な児童・生徒だったので、成績は相当偏っていた上にかなり悪かった。学校で学ぶものは、社会に出て役に立つとか立たせる、立てるとかいうものではなく、知識と経験から知恵を生む為の道具の使い方を習うためのもの。

 つまり少なくとも義務教育は、延々と「道具」の使い方を学ぶ期間に過ぎない。

 

 まー御託は脇に措いといて、自分一人だけが出来ることなんぞたかが知れているが、そう思考する人が一人でも多く1滴の水をもたらすことをしたならば、(古典的な意味で)やがては理に叶わぬが(現代的な意味で)やがて流れになるだろうか?

 …ん?言葉で遊ぶなって?こりゃ失礼。古典的な意味での「やがて」は「すぐに」という意味です。

 

 どういう道を辿るにせよ、難しい問題だよなぁ…。

 さて、本日のお茶。

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 お茶はダージリンはサングマタールザム茶園のユメコバリだったかな?

 お茶請けは母提供の紅茶のシフォンケーキ(兄貴と半分こ)。と岩国のがんね栗のパイ。