講座最終日です。行きは天気が良かったものの、帰りはしっかりと俄か雨に降られました。
自天王、または尊秀(たかひで)王は、南北朝というよりは後南朝の人。南朝最後の指導者的な立場の方です。この方の弟宮・忠義王こと河野宮(こうののみや)は南朝最後の征夷大将軍と言われている。系譜もよく分からず生年もよく分からないが、一説には自天王の享年は18とも。没年は長禄1年(1457年)。赤松氏復興の為に吉野の北山で討死。確か楠正理も共に討死している。ただ、弟宮は急襲された後逃げることが出来たが、別の場所で討死したとも言われている。
教科書なんかに全く出てこないので「?」と思うかと。
教科書レベルで有名なのは1392年の明徳の和約。これで南北朝が統一。しかしながら北朝側は和約を守ることなどしなかった。1428年に歴史に残る正長の土一揆勃発。1443年にかの有名な嘉吉の乱(足利6代将軍の暗殺)。これに関わっていた赤松氏は家を取り潰された。
実は嘉吉の変ではなく、嘉吉の乱(禁闕の変/きんけつのへんとも)というのが1443年にありまして、南朝方が京都の内裏を襲撃し、三種の神器のうち勾玉と宝剣を強奪している。うち宝剣は奪回されたものの勾玉の保持には成功。
赤松氏はそこに注目した。凋落したとは雖もブランドを保っていた南朝を徹底して叩き、勾玉を取り返せば罪は許され家の再建がなるだろう。と踏んだ。長徳の変において奪ったり奪い返されたりとしていた模様。南朝方は王二人とも殺害され、勾玉の保持は叶わなかったものの二人の首級を奪回することには成功した。
しかし南朝方もこれが最後というわけではなく、なんとその後の1467年に復活。・・・・そう、あの史上最もぐだぐだにしてなんやよう分からん上に京都をほぼ壊滅に陥らせた11年間の戦いこと、悪名高き応仁の乱において有力守護大名山名宗全に引っ張り出された。ちなみに引っ張り出されたのは、後亀山天皇を始祖とする小倉宮の末裔、信雅王。対抗者は管領の細川勝元が擁立した後土御門天皇。
明確な勝者もなく、うだうだ~と続いて崩れて何となく戦国時代へ。
再び南朝が云々と出てくるのは幕末期。
幕末期、『本朝後胤紹運録(北朝正統に基づいた系図)』にて北朝が正統とされていたものが、水戸学(朱子学的名文論に基づく南朝正統説)に取って代わられる。
ここで明治時代にまで及ぶ南北どちらが正統かという議論が表面化する。
当世の明治政府や天皇陛下の立場からして、これって利用する手はないと思ったんじゃないだろうかねぇ。
明治44年、つまり明治時代も終わる1911年の帝国議会において南朝が正統とされ、「南北朝時代」は「吉野朝時代」と改められ、北朝の5人の天皇(光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、後円融天皇)の存在は不承認となった。
で、江戸時代から本朝史上三大大悪人とされてしまった足利尊氏が、明治政府によって逆賊認定された。ちなみに残る二人は道鏡と平将門。
近年見直しがされているが、ホントとんだとばっちりだよな。
ここで問題発生。
南朝を正統と認定すると、現在の天皇家の血筋は北朝なので不都合が生じる。
どうしたかというと、後亀山天皇から後小松天皇への神器の譲渡は有効とみなし、不承認の5人の天皇にまつわる祭祀は従来通りに踏襲という形を取った。つまり現在の天皇家の正当性保たれたことになる。
これで一旦落ち着いたかな?と思われますが、実はまた蒸し返されるんだな、これが。
このブログの読者で70代後半以上の方が居られれば、もしや記憶にあるかもしれません。
「熊沢天皇事件」とくれば、上記年齢外でも「アレかーっ!!」となる人がいるがいるかも知らんな。自分のように。尤も自分の場合は熊沢天皇よりも川崎天皇の方がピンと来るのだが、まぁそれはいい。
熊沢天皇事件も始まりは明治44年(←マテや)。熊沢大然(ひろしか)が自身は小倉宮の末裔、信雅王の子孫で、第117代天皇とする嘆願書を口伝や菊花紋章などと共に宮内省(当時は省だった)に提出。
結果これは無視されたんだが、次に大然(ひろしか)の養子寛道(ひろみち)が昭和21年に証拠とするものと共に第117代天皇とする嘆願書をマッカーサーに提出。
で、どうなったかというと、確認作業のため、昭和天皇の全国巡幸に同行させた。
しかし結論が出なかった。
昭和26年に寛道が昭和天皇の「天皇不適格確認訴訟」なるものを東京地方裁判所に提訴するものの、却下される。
下地があったとはいえど、戦後GHQが14あった宮家を3つにまで減らした弊害とも言えなくもないな。今後同じようなことがある可能性も無きにしも非ず。
ここで後醍醐天皇についてあることを御存知の方なら、ツッコミの手が入ることかと。「後醍醐天皇の子って何人いるかと思ってんだよ!!」と。
熊沢天皇が目立っただけで、血筋だけ言うのなら現在吉野において後醍醐天皇の末裔で天皇になれる血筋の人達が19人~200人いるとのこと。
歴代天皇の中でも後醍醐天皇は確認されているだけでも子供の人数が多い。確か36人?
皇胤や高位貴族といった貴種が地方に逃げ延びた場合、地元の有力者や権力者に擁護される場合が多い。早い話系図に取り込めるのでね。その為末裔が沢山いる。
現に自分の周りにも「系図に桓武天皇の末裔と記されているよ。」という人もいた。本人曰く「そこまで遠かったら最早そんなのファンタジーですよ。どれだけ子孫いると思ってんですか。」とのこと。
中にはそれはちょっとと・・・・とツッコミを入れたい天皇の末裔もおる。西方に現存しているのだが⇒安徳天皇の末裔。
あと、源為朝は琉球に行って血を繋げたので琉球の王には源為朝の末裔という話もありますわな。それが故に沖縄には朝(とも)とつく人が多いとか?
次に三種の神器についてですが、これは天皇ですら見ることが出来ない。しかしながら知らずに開けてしまったということが幾度かあり、それは記録に残っている。
通説は様々あるものの、本物が3つ、形代(かたしろ/偽物の事)が2つで最低5つはあるそうだ。
何でも後醍醐天皇(また貴方か!)が形代を作りまくったと・・・・。
御剣は熱田神社、御鏡は伊勢神宮、そして勾玉は皇居にあり、全てを持ち合わせた存在が天皇だそうだ。
何を象徴しているのか諸説あり過ぎて分からないそうだが、天皇のシンボルであることだけは不動。
ちょっと紹介してみると、御剣が大陸の影響で王権や権力のシンボル。この大陸は恐らく中国のだと思う。ペルシアになると王権や権力のシンボルは弓矢になるから。
その他鉄や渡来系のシンボルでもあるそうだ。
次に御鏡。これは太陽のシンボル。他には不可思議な力。
そして勾玉は、胎児の形を模したもの、漁業、信仰のシンボルとな。
露見した記録によると、露見したのは3回。御鏡は固定されているので露見記録はないとのこと。 壇ノ浦で源氏方によって知らずに開けられたようです。あとは何が原因か知らないが、熱田神宮の宮司が見たとの記録もあるそうです。
草薙の剣は80cmくらいで、箱の中にて赤土で固められているとか。勾玉は8つの玉で形成されていると。
そして天皇が移動する場合、滞在が1泊以上だと一緒に移動する。なんと御両列車には勾玉のみが乗る車両があるそうだ。
誰も確かめようがないとはいえ、何かスゴイな・・・・。
自天王の怨霊の話に戻るとして、怨霊というのは天下を乱すものであり、鬼とは異なる。鬼は個人限定。
南朝の人々が明治時代になってから次々にある意味意図的に神様にされてしまいましたが、地元民はそんなことには関係なく、鎮魂の為に神社などを建立。あとは勝ち組となった側が祟りを恐れて慰めたりした。
怨霊が歴史に長く名が残っているのは、時宗の遊行僧達が原因とも言えましょう。
偲ぶ事もまた怨霊慰撫に該当する。一般人にはそれで充分。だが、もしそのうち忘れ去られていって怨霊が怒りを爆発させたら手に負えない。
すると「えきすぱぁと」の出番となるわけだ。つまり怨霊話を流布することによって仕事を確保し、その存在をアピール⇒取敢えず喰ってはいける。
それ即ち日本人の怨霊信仰を利用したビジネス。
最後に豆知識。
陵は天皇のお墓。今まで124人。しかし陵は確認されているだけでも188ヶ所。
皇后や皇太后、代皇太后(というのか?)を含めたとしても、誤差があると思える。何でかねぇ?
御墓というのは親王及び内親王のお墓。これも確認されているだけで552ヶ所。
裏付け取れているんですかねぇ?特に宮内庁主管になってしまうと一般人は立ち入れなくなるので、仮に発掘許可が出たとしても何かが明らかになるのはかな~り先の話になるかと。
この講義の後に日本の賤金思想が如何に形成されたかという話もあったのだが、これは割愛する。
以上。
相変わらず無駄に長い。
本日のお茶。
お茶というよりはココアですな。
お茶請けは熊本県天草市はイソップ製菓さんの阿蘇キャラメルあん巻き。小麦は100%熊本産、牛乳は阿蘇産、食塩は天草産です。
ほんのり柚子っぽいのは使っている蜂蜜の所為なんだろうか?
お茶その2。
お茶は加賀棒焙じ茶。
お茶請けは栃木県足利氏は和楽さんの桜餅(関東バージョン)。