昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

主観的、記憶的なものを数値化・可視化すると、世界はどうなるのだろう

 タイトルにいきなり結論(というか疑問)持ってきていますが、本日そんなことをちょこっと考えておりました。何でかっつーと、今日が蜂蜜の日だから\( ̄  ̄*)ソンナンデイイノカヨ・・・

 

 と、まぁセルフツッコミをしておく。

 そして以下は盛大な独り言だ。

 

 蜂蜜色や蜂蜜のような香りという表現があるのだが、具体的にはどんなもの?と思って帰結したのが本日のタイトル。

 味覚センサーや嗅覚センサーといった分析機器は存在する。それによって食品や薬品(飲み薬)の開発が効率よく進められていることやセキュリティーに応用されるかもしれないのも知っている。

 そういったことを踏まえて、人によって異なる基準が存在するものを数値化・可視化して、具体的な説得力を持たせることによって、世界は拡張されるのかもしれないし、規準が顕在して均質化されることによって、縮小されるかもしれない。

 

 あと、可視化されることによって、本来の感覚が退化することってないんだろうか?

 例えば賞味期限といったような、目安が設置されたが為に五感や考える力を使わず、直に行動に出る。といったことなどは増えるんだろうか。合理的であるが生きるそのものの力自体を奪ってはいやしないだろうか。と思うことはある。

 

 センサーそのものはこの世に深く関わってくることはあるだろうけれども、その存在が世に強く出てくることはないだろうと思う。なので、この余計な懸念は体感的に役に立たないものよりも役に立つものを喜び、受け入れよ。てな帰結になるかね?

 若しくはブリア・サラヴァンではないが「新しい一皿の料理の発見は、人類の幸福にとって、一つの星の発見よりも、より有効なものである」といった感覚に近いものなのかもしれない(機器の存在に危機を感じるのではなく、人生における影響力自体が異なるのだからその恩恵を素直に受け取れ)。

 ちなみにブリア・サラヴァン氏はフランスの人で、『味覚の生理学』や『美味礼賛』の著者である。チーズの名にもなっているので、聞いたことはあるかもしれない。

 

 文章のまとまり方が下手そのものだが、見えなかったものが見えるようになったことで、感覚的に得ていたものが得られなくなっていくことってあるんかな?それにそのような心配自体無駄な徒労なんだろうかね?と思うと同時に、どことなく不安を感じる自分がいる。

 新しい技術だからというよりは、技術そのもの自体に善悪はなく、どちらにも加味出来るという先人達の結果が先に来ているから、自分にとっては何となく受け入り難いのだろうと思う。…うん、所謂化石人類ってヤツですなぁ。

 

 さて、一体世界はどちらに向かうのやら。

 

 本日空港で採蜜された蜂蜜で、ハニースカッシュを作ろうと思ったのだが、力尽きました…。