タイトルのように思われていることが多いようです。大いなる誤解なのにな。
今は小学校で障碍者の疑似体験や障碍者学習(というのだろうか?)はしないのだろうか?
自分が通っていた小学校の時間割の中に「特活」こと「特別活動」というコマが週1あった。クラブ活動とは別(クラブ活動も週に1コマあった)。
障碍者に関しては、その授業の他、道徳の授業や別個のプログラムで体験学習した。その中に近所(坂下と道1本挟んでいたのでほぼ隣)にあった養護学校の施設見学などもあった。
障碍者学級があったわけではないが、クラスに2人ばかり障碍者もいた。
このような感じで少しではあるが身体的な障碍者と接する機会はあった。が、精神的な障碍者と接したことはあまりない。
そもそも精神状態において、何を「正常」とするのか実はよく分かっていない。見た目から分からないと余計そう思う。
世界を測歩するためには自分という基準が必要だが、それは矛盾という名の矯正を以って「一般的」や「常識」とされるものに補整されていく。
では、その「一般的」や「常識」とやらは一体何の為に、誰の為に作られているのかよく分からない。
それらは自然(じねん)であって無呪(むしゅ)であって、「そういったもの」として理解する他ないんだろうな。そして異(い)な事と遭遇した場合、今度はそれが計測するための基準になる。
……何か、疲れているようだ。タイトルから乖離しとる。