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ラスコー展と南北朝の怨霊 ~楠正成編~に行ってきた

 実験逼迫してんのに何サボってんだよ!?と個人的なツッコミをしておく。従って今週日曜日は休日出勤。だから、今日ラスコー展に行った。本当はもっとゆっくりと見たかったさ!!
 
 知名度が高いラスコー洞窟だが、現在は閉鎖されている為見に行くことの叶わない世界遺産。思った以上に人が多かった。本邦だけではなく、世界初公開のものもあれば日本限定のものあるということに加え、1㎜程しか狂いのない精密な洞窟壁画のレプリカを目にすることが出来るのだから当然かもしれない。

 

 構成は以下。
 クロマニョン人がどういった人類だったか⇒洞窟の発見から閉鎖まで⇒模型を使った洞窟の形状⇒洞窟内に残されていた画材や道具などの謎⇒洞窟壁画⇒ラスコー洞窟の研究⇒クロマニョン人の世界・芸術はいつ生まれたか⇒クロマニョン人の正体・彼らはどこから来たのか⇒その時日本は
 
 何の為に描かれたのか、何故描いたのか。解らないことだらけだそうだ。しかも単体ではなく集団で。壁画自体も足場の悪い高いところに描かれているので、梯子を使って描いていたところもあるそうだ。
 壁画は約2万年前に描かれたとは思えない。技法やその観察眼からして、古代史好きな人にはこりゃたまらんわな。と感嘆。


 他に「!」と思ったのが、彼等が生きた時代に生息していた動物の骨格が展示されていた。オオツノジカというもので、象ですか?といえる大きさ。写真撮影はOKだったがそういった媒介を持っていなかったので画像はなし。


 洞窟壁画も凄かったが、興味深かったのが前述のルートのクロマニョン人の世界から後の章。人類は西アフリカで誕生し、分岐や滅亡を繰り返してホモ・サピエンスという種、つまり現在に至るのは周知かと。クロマニョン人も種としてはホモ・サピエンスに入るので顔立ちは今の人と変わらない。そして彼等の時代から飛躍的に進化し、そして芸術も生まれた。
 
 気候なども大いに影響していたのだと思うが、その点についてはもう少し掘り下げて欲しかったなと思う。あとは衣食住の食に関して。何を食べていたかというよりは何をどう食べていたのかとかね。
 今までの研究者達の情熱も凄いが、まだまだ解明されていないことが多いので一般人の身としては待つしかないですが、興味を熾火として持っていたいと思う。
 あと、その時日本ではというのも面白かった。発祥の地から遠いという理由の他に、土壌が酸性の為有機物が残りにくいという点で実態がより掴みにくいようだが、実は世界最古(約3万年前)の落とし穴(猟罠)があったり、かなり難易度の高い航海を男女共にしていたりと好奇心をくすぐる事例が多い。

 

 時間が押していたので、出てすぐ館内の庭で雀にご飯をあげながら即お弁当をかっ込んで、次なる場所へ行きました。
 で、どうにかセーフ。

 

 『太平記』における正成さんの登場から死の直前まで、既に怨霊化決定という書かれ方をしていると。
 史上での活動年数は5年程なのに、後の世の後押しがあったにせよここまで知名度が高いのは日本史上において正成さんくらいなものだそうな。

 

 教科書的な取り扱いとなると河内の悪党とされるが、実際は駿河出身の北条氏得宗被官(幼少期に河内に移り、そのまま北条氏の支配下から離れていったらしい)。あ、北条氏得宗被官って、平たく言うと北条氏の雑用係(強い隷属的な下級役人)。
 出自などは不明とされているが、悪党が身元をさらしてどうするよ!?というのがあって、特に史料は残っていないのだとか。父の正遠の代までは楠ではなく橘を名乗っていたとも。

 

 でー、正成さん怨霊化の燃料は色々とあるようですが、代表的なのが護良親王の失脚。
 脱線しますが、何かね、親に認められようと頑張ってきたのにもかかわらず、却って害悪を引き起こしたり失望したりというキャラだと思うんだよね。護良親王って。他には足利直冬新田義興がそう。

 

 護良親王は頭が悪かったとは思えないが、諸説があるが仏門に入ったのが早かった為政治的な駆け引きや空気を経験することなく表舞台に引き戻されたので、人の情を読むのには長けていなかった。良く言ってしまえば純真無垢。
 後醍醐天皇が寺社の力を得る為に仏門に送られたと考えるならば、本来まだ守られるべき時に守られなかった子供は長じてから加減を知らずに極端から極端に走る傾向にある。加えて宮は上層稚児に該当するので大事にはされていたと思う(純真無垢である原因)。


 政権が後醍醐天皇に戻った時、味方にした勢力の性質や宮の立ち位置や取り扱われ方を見るに当たって、共に多くの血を浴びてきた正成さんはどう思っていたか分からないが、それでも見捨てないでいたと思う。輾転反側裏切りが当たり前の世においても。

 

 ちょっと妄想⇒近くにいながらやっと戦が終わったのに、生きながらにして修羅道に堕ちていくような宮に対して手を差し伸べたのかもしれないが、宮は差し伸べられた手を取ることは出来ても、その手をどうすればいいか分からず、握り方すらも忘れてしまったのかもしれない。かつては自分が差し出された手を取ったのに・・・・。

 

 ちなみに『太平記』を読んでいると、宮の性格は一致していない。始めと失脚前とでは正反対といえる描写になっている。

 

 宮が捕らえられたのは正成さんが残党討伐で京を離れていた時。宮捕縛後は側近が片っ端から捕まってさっさと処刑されている。
 あくまで仮説として出されていたものに、それを知った正成さんは持ち前のネットワークとフットワークを駆使してまだ残っている側近を京から逃がした。とか宮を捕縛するに当たって正成さんを洛外に出したのは尊氏さんかその周辺だというのがある。


 宮がそうなった後は、一部を残して正成さんは総辞職をしている、これはあくまで自分は宮の与力である。という意思表示と共に、使えるだけ使っておいてお払い箱にした後醍醐天皇に対する抗議を兼ねているようだ。

 

 もう一つ代表的なものを上げておくと、尊氏さんが離反して追い落とされて九州に敗走した時、こちらから和議を申し込もうと提案したことを却下された。+4ヶ月ほどでUターンしてきた尊氏さんらの大軍を迎え撃つに当たって、勝つ為の策を献じたところこれも却下された。
 勝者側から和議を申し込むということは、自分達側に比較的有利な条件を飲ませるということも可能なわけだ。『梅松論』によるとその使者は自分が務めるといっている。この案が却下された後、「尊氏とどういった関係だったんだ?」とか「ついに気でもふれたか。」「田舎者にとっては都の空気はさぞかし身体に悪かろう。」てな侮辱された挙句、河内に謹慎を申し付けられた。

 

 尊氏さんの大軍を迎え撃つに当たり献じられた案は、後醍醐天皇の側近である坊門清忠が却下した。戦う前から逃げるとは何事か。ということに加え、宮方の勝因は王威と聖運(しょううん)によるものであって、武士(正成さんの武略や軍功、付き従った兵達)ではない。という思想が潰した。しかも後醍醐天皇もこれに賛意を示したので、「帝は私に死ねという事ですね。はい分かりましたよ。」といってさっさと出陣した。


 尼崎において後醍醐天皇宛に「貴方に徳はないからこの戦は負ける。自分がいても役に立たないからさっさと死にます。」てな旨の書簡を送っている。
 そう書いておきながら、熊野に水軍を要請したり(到着は間に合わなかった)義貞さん逃がす為に奮戦したり、動ける自陣の者を布引の滝に逃す為に時間を稼いだりしている。
 最後に弟の正季(まさすえ)と腹刺して刺し違える時に、めっさ悪用されたかの有名な「七生報国」の誓いがなされている。つか、これ言ったの正成さんじゃあなくて正季さんなんだよね。正成さんは同意しただけ。なのに何故か正成さんが言った事になっている。

 

 『太平記』によると、この時「罪深き悪念なれども、(以下略)」という描写になっているのだが、この言葉が怨霊化宣言に該当するのだそうです。ただ、怨霊化するということは自身も苦しむことになるので(成仏出来ずに現世を彷徨うことになるからな)、本懐を遂げた後はちゃんと供養をしてくれ。という意思表示でもあるそうだ。
 能楽が鎮魂芸能であるのも実はこのことと深い関わりがあるとのことでした。
 観阿弥の母が正成さんの姉妹。正成さんの嫡子・正行(まさつら)と観阿弥は従兄弟同士。最終的に家督を継いだのは正儀(まさのり)。彼は北朝と幾度も和平交渉をしている。北朝側の使者は芸術を手厚く擁護した佐々木導誉。二人を引き合わせるように舞台セットをしたのが、当時流行して様々な場所にいた能楽師達。その中心には観阿弥がいた。という仮説もあるそうだ。

 

 死後もちょこちょこと『太平記』では引っ張り出されている正成さんだが、これって講談師と聴講者の都合では?とも思えてしまう。
 室町三代将軍の義満が王権を簒奪しようと動き始めたら急死したというのも、正成さんの怨霊の所為とされているとか。尤もこれはこじつけとの見方が強いが。
 
 明治時代になってから南北どちらの天皇が正当なのか?という論争があり、三種の神器あるなしの即位によって南朝側が正統と正当された。
 当世は北朝天皇の血筋であるが、江戸時代の尊王思想、幕末の尊皇攘夷や外患やらで天皇の地位が揺るいでいた。一般的に南朝の忠臣達とされている者達は、近代の天皇制を敷くに当たり権威や国力を高める為の喧伝材料に使われた。特に正成さんは尊王の志士達が祀り上げていた為利用し易かったらしい。あと、明治天皇が当時置かれていた状況というのが後醍醐天皇とよく似ていた為、後醍醐天皇と自分をダブらせていたようです。
 強い怨霊であればあるほど鎮魂して供養することによって、物凄く強い守護霊になることも踏まえて湊川神社を創建し、別格官幣社天皇の臣下を神として祀る)に指定した。これは正成さんだけではなく、寵臣といわれた三木一草の残る二木一草、義貞さん他も同列の扱いを受けている。

 

 ・・・・・・何だかやたらと長くなったが、正成さんの項は以上。
 次は新田義貞
 5月にも別の大学の三鷹キャンパスで、義貞さん絡みの公開授業がある。平日なので受けようかどうしようか悩み中。

 

 本日のお茶。

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 お茶は松針紅。
 お茶請けはユーゴ&ヴィクトールさんのフィナンシェ、ルイボスティー(やはりナチュールが一番ですな)と、カントリーマアムのカカオ70(緑)とフルーツグラノーラ(赤)。