やったら長いです。
場所は足利。市政100年を記念した展示だそうな。
足利とくれば足利氏と新田氏。『太平記』を読む者としては1度は訪れてみたい地ではある。といっても今回2度目だが…。ただ、足利尊氏・直義兄弟て足利生まれでもなければこの地を訪れたこともなかったとか?
あとこの展示、狩野派との繫がりを探っていることもあり、そちらの方も興味深かった。とにかくこの地が画人を輩出したことは確か。
本日は保護監督責任者付随。いいんですかねぇ?自分の都合でぶん回した挙句。ごはんと入館料までたかるなんて(←…)。
入館時間まで時間があったので、まずは織姫神社の蕎遊庵(きょうゆうあん)さんに往きまして、腹ごしらえ。ここのお蕎麦は絶品です。
今回は電車で往ったのだが、自分としては懐かしい所を通りました。例えば加須(かぞ)。玉敷神社まで歩いて行った莫迦は自分です(1時間20分かかった)。あと多々良。随分前に群馬県立館林美術館に行ったことがあったっけかな…。フィンランドのカレヴァラに関する展示だった気がする。
駅から徒歩20分あるのにもかかわらず、地図もなしに多分こっちの方という勘のみで辿り着いた場所(^ω^;)イイノカ?ソンナンデ…
※この先THE HEROESと同じように、イタイヤカラと化しておりますので、オカルト的な話嫌いな人は回れ右!でお願いします。
話を元に戻して、第一章は画人武将の足利長尾と狩野派の系図を絡めて作品と共に展示。はいいのだが、自画像は焼けてしまっていて見辛いことこの上なかった。何となーく、あぁ、分からなくはない、かな?という認識しか出来なかった。
で、狩野派に欠かせないつか、彼等がいなきゃ狩野派は後々に大成していなかったとまで言われる日蓮宗、当たり前のように絡んでおりました。
この章の目玉と言ったら、中国伝来の白鷹図だろう。武家の間で珍重されたものだが、展示されていたのは伝ではあるが、北宋の皇帝(徽宗/きそう)によるものだとか⁉画才に恵まれていた人物で、画人だったら憧れやまずといった感じです。
第二章は戦国武将としての足利長尾について。以前山火事に見舞われた両崖城/足利城(量が異常って出てきたよ…)や岩井城/勧農城及び戦国勢力や家系図など、色々と知ることが出来ます。
ちなみに前述の織姫神社は見晴らしがいい。その裏手(というか、奥?)に両崖城がある。今は登れないが、古墳もあったりします。
鑁阿寺(ばんなじ)との繫がりなどもここで触れることも出来ます。概要というか説明もついているのだが、字が小さめで自分としては見辛かった。
菩提寺についても言及していたがそれについてはまだ謎が多いようで、今後の研究が待たれます。
ここで展示されていた掛け軸の画も焼けていて、目の周りの補正された部分だけが目立ち、まるで眼鏡を掛けているように見えた。もしそれが眼鏡だったら、超高級品を使っていたことになるね。出始めの眼鏡は水晶を研磨して作ったものだから。
第三章が足利長尾氏6代目の足利顕長(あきなが)と、刀工堀川国広との邂逅について。
この堀川なるもの、経歴がよく分からんお人。実際に足利に行った理由もよく分からなければ、去って京に居を構えた理由もよく分からんようで。
この章で最も力の強かったのが、国広の父、旅泊の刀。三章の説明幕の裏側にいたのだが、幕を介して2m以上離れていてそのエネルギーが伝わってくるって、どんだけよ⁉視えない自分がそう思えるくらいなのだから、視える人は中てられるんじゃなかろうか。
感じたエネルギーは義憤とか悲哀とか、それでも戦わなければならない矛盾とか、一言で表すのなら、そうだな…「阿修羅」と似たような手触りを感じた。
金筋というのかね?が出ていたとても綺麗な刀でありながら、何だか辛くて泣きたくなってくるような、そんな感覚を抱かせてくる刀だった。
炎揺らめく荒野に裸足で立っている、筋骨は逞しいが無力感の漂う、そんな姿の付喪神さんでした。背が高くて斜め後ろから見ているような感じだったので、顔はよく分からん。
その隣に展示されていたのは国広の生まれ故郷で打ったものとのことでした。ぼろぼろに刃こぼれしていましたが、敢えてそのままにしているのだろうか?こちらは女性の付喪神さんでいいのだろうか?中性的でふわふわ~としていて、旅泊の刀に対して「そんなに思い詰めなさんな。」言っているように見えた。
その他書状があったり、鉄滓(てっさい)や玉鋼の現物が展示されていました。
鉄滓って、何か使い道あったんだろうか?と思う。踏鞴(たたら)製鉄において取り出せる玉鋼の量は原材料の砂鉄の重量の僅か0.12%しかない。玉鋼はケラ(鋼)から取り出される。そのケラは原材料の3割くらいは取り出せる。
つまり単純計算で7割は鉄滓。
…金を失うと書いて「鉄」と書く。鉄持ちと書いて「かねもち」と読む。字ってよく出来てんな。
展示されている刀は9口で、そのうち目玉とされているうちの一つが布袋国広。布袋様が彫られている脇指。見た目からして武器として作られたものではなさそうです。布袋様の彫りが深いので、衝撃で折れるでしょうな。
禅宗との関係があるらしいということと、足利学校で鍛刀されたもの、布袋様は実は国広自身と思しいということから、戒めを形にしたものか。それとも鎮魂の意味などがこもっている?などと思えますね。
足利学校の、知識ベース(教養)がないと読み解けない戒めを考えると、そう穿って読まれても不思議はないかと。
こちらの付喪神さんは実際の布袋様よりも少しやせている感じで、見る度に変化して見えるので、恐らく布袋様が見ている夢がだだ洩れ状態になっている。と思っていいのだろうな。迦陵頻伽?とも言えるの居たし。
国広の代作を務める腕の良さを持つお弟子さんこと国路(くにみち)と、作刀数が多く最晩年のお弟子さんである国貞の刀も来ていて、2口とも男装麗人というかクールビューティーというかキリッとした辛口の冷酒を思わせる雰囲気を纏っていましたね。
そして今回の展示で一番のメインこと、山姥切国広。布袋国広とほぼ同時期に鍛刀されている。
北条氏直から拝領した、南北朝は長船長義派の刀を写したものと言われているが、見た限り写したのは形状だけで、刃文やらは国広のオリジナル。つか、渾身の技巧を込めました。といった感じだ。
拡大した写真パネルが壁にあり、双方見比べてみることが出来るのだが、言うならば、和歌の手法でいう本歌取りをやって、オリジナルに勝らねど劣らぬ。を作った。とも言えるかね?
ついでに国広の刀は山姥を切った伝承を持っているようなので、山姥切とついているとのこと。
長義の刀も国広に記録を刻まれていることから、失うには惜しい逸物であったことは想像に難くない。
鍛刀された頃、関東でも色々すっちゃかめっちゃかやっていたから、いつ失われてもおかしくなかっただろうしね。
んーで、山姥切国広を見た時、真っ先に思ったのが青い色の紫陽花。多分刃文の所為なんだろうと思う。
纏っていた色は雨で埃を落として蘇った草木の蒼と、木成色。本体から離れて立っていて、鑑賞者を見るとはなしに眺めている感じだった。顔は整ってはいるけど疲れているような感じだったね。見世物気分なんだろうか?
骨喰藤四郎が他者の思い入れで姿が変容したように、彼もまた変えられつつあるんだろうな。付喪神にとってそれが幸か不幸か分からないが、変容させられることに抵抗しているような感じがあった(そんなに嫌なら膝丸みたいにコーティングすりゃいいのにとも思うんだけれどね)。
しっかりと視えている人にはどう見えていたか分らんけど、少なくとも自分はそう視えた。
まーうだうだ書いてもしゃーね―。
3章は他にも東西番付があったり刀剣研究書があったり、宮本武蔵が描いた眠り布袋様があったりしました。
宮本武蔵は彫刻もやっていた。確か彼が彫ったお不動さんが細川家に伝わっていたはず(何だか野球選手っぽかった記憶がある)。
あ、番付は相撲の番付に倣っており、上段は有名どころばかりでした。ついでに当時横綱というランクは存在しなかった。大関が最上。
西の大関は短刀の名手こと藤四郎吉光。東の大関は濤瀾乱刃(とうらんみだれば)の創作者こと津田越前守助廣。
刀について知っている人ならば、知らぬ人はおらんでしょう。ってなくらい有名な人。
最終章の四章は、足利学校とその歴史について。
十六世紀には既に西洋世界に知られていた存在の一つ。この章では学校が果たした役割や影響力、存在の大きさが大まかに分かる。美術館とも近いので、時間があれば実際に足を運ぶことも可能。実際自分も鑁阿寺共に足を運んでみました。
授業の内容を一部体感出来ることもあり、面白かった。が、「このインテリめが。」と思ったことも事実(←自分の頭の悪さを棚に上げるなよ)。
歴史を知るには第四章をじっくりと読み込むに越したことはないが、その知識を元に足を運んでみるのはよきことだと思う(入館は有料だけれど)。
敷地面積は広くないのでくるっと巡るだけならそう時間はかからないが、往年の時間に思いを馳せるのはいいかもしれない。今の時期は寒いが、足利は藤が有名なのでその時期に赴いてもいいかもしらん。
ところで堀川氏は一体どこで鍛刀したんだろうかねぇ?
美術館を出る時、物凄い強風で寒かったが、外で案内の係に当たっている人達は、日陰ということもありタップダンスを踏んでいました。風はホントに強かった。
帰りに渡良瀬橋を渡る時、よろよろしながら歩いていたのは自分デス(^▽^;)体積は小さめだが、髪が長い分持っていかれる力が強いから、シカタナイ。しかし自転車の人以外誰も見ちゃいなかっただろうけどね(保護監督責任者は前を歩いていた)。
朝ご飯く食べそびれ、昼はお蕎麦。その後飲まず食わずで美術館⇒足利学校⇒鑁阿寺と動いていた為に、帰りの電車の中でぐったり。しかも帰りの電車も保護監督責任者と別れてから人身やら信号トラブルやらでげんなり。
帰ってからも、前日にある程度終わらせたといえども晩御飯の支度でうんざり(絶対親父はやろとしないからな)。
気を取り直して本日のお茶。
お茶はデカフェ仕様にした未夜。
お茶請けは母から頂いた菜の花おはぎと桜切団子。今の時期はぼたもちと言わないか?と胸中ツッコみつつ頂いた。
添えてあるのは菓子切り刀剣、布袋国広。美術館のショップで購入しました。黒文字同様菓子切りはあると便利。
しかし切団子はともかく、おはぎは切るというよりはへし切るという状態だったね。画像のような皿の場合は、皿の端をへし折らんように注意しないとならんね( ̄▽ ̄;)
お茶請けとお茶との相性はまずまずでした。