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昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

南北朝の怨霊 ~新田義貞編~

  この人は何てーか、印象に残りにくいのかタイミングが悪いのか、不幸に不幸が重なった人とも言える。その為か怨霊化材料たっぷり。しかも足利絡みというのがまた・・・・。ついでに渡良瀬川を挟んで足利とは隣同士。
 元々源頼義河内源氏)の血を継ぐ者。上野国が本拠地なのは、ご先祖さんの失態による。
 
 先ず挙兵して鎌倉に進出の際、尊氏の嫡子の千寿王(後の義詮)と合流。鎌倉幕府滅亡後、最大の攻略者は尊氏の名代である千寿王とされた。
 何故かというと、義貞は護良親王の令旨(りょうじ)を持って、千寿王は後醍醐天皇の綸旨を持って参戦。かつ9日か10日位の違いしかないが、義貞よりも尊氏の方が後醍醐天皇の綸旨を手にするのが早かった。
 公式文書として天皇の綸旨と親王の令旨は、臨時の方が格上なので武士達はそちらに従った。

 

 で、これに建武新政下での義貞と尊氏の処遇の格差が怨霊化に拍車をかけることに・・・・。 
 義貞⇒従四位上右兵衛佐、上野・越後・播磨国国司
 尊氏⇒従四位上左兵衛督、武蔵・上総・常陸国守護。加えて昇殿を許された上、鎮守府将軍(奥州管理者)に任命され、後醍醐天皇の諱(尊治)の一字を下賜される。
 
 右と左、左の方が上です。佐と督、督の方が上です。国司と守護、守護の方が上です。天皇の諱(いみな)を下賜される時、普通は下の字を賜ります。
 建武新政は政治中枢から尊氏が排除されたので、「尊氏なし」と称されたが、実際に排除されたのは護良親王
 それは兎も角として、尊氏は最後の最後、お膳立てが整ってから幕府を裏切って美味しいトコ取りをしたとも取れる行為だった(しかもこの判断を下したのは尊氏よりも直義らしい)ので、義貞にとっては許しがたかっただろうな。ちなみにこれは護良親王にも多大な影響を与えている。それについてはここでは触れないが、護良親王の怨霊化の燃料になったことは間違いない。

 史実として明らかな燃料といえるのはこの2点だが、恐らく細々としたものが蓄積していったというのもあっただろうと思う。
 義貞が不信感を抱いていた、楠正成(義貞に対しては警戒心を抱いていた)と尊氏が相互評価の高い仲というもの要因の一つかも知らん。で、その後尊氏が離反し九州に追い落とした時に、正成は義貞を誅罰して尊氏を呼び戻せ。と言っている。ただこれは原因と現状及び今後に与える影響を考えた末の結論であって、仲の良さは関係なかったのだが、如何せんねぇ・・・・。
 しかしこの案は、真の意味で下克上ではない時代、身分や出自が全てという世界において彼の進言は顧みられることはなく、その後正成は徒死を強いられる。

 

 新田氏は親子で怨霊化しているが、息子の方が有名。義貞の次男で子として認められていなかった義興(よしおき)は矢口渡にて元配下に謀られて自刃に追い込まれている。怨霊化してからは父親よりも目立っているし、きちんと怨敵もきっちりと始末をつけている。
 同じ次男父親から実子として認められなかったのは足利直冬(今熊野)も同じなのだが、足利父子は徹底的に憎み合ったのだが、新田父子は子がきちんと親の意思を継いでいる。それは義興の烏帽子親が後醍醐天皇だというのが大きいからなんだろうか?
 ・・・・んーでもそれを言ったら、護良親王亡き後後醍醐天皇の猶子となった興義親王は――ってなことになるな。
 
 義貞はといっていいのか、怨霊になっても帝を守護し助けた例が『太平記』(巻三十「南帝八幡御退失事」)にある。討死した時も肌守りに後醍醐天皇の指名入りの綸旨(?)を入れていたことから、結構忠臣ではあったのではないかな?と思える。陰陽座の《刃》を髣髴させますな。個人的に。

 

 日本の歴史に欠かせないというのか、日本人の感性に根深く下ろしている怨霊信仰というやつですが、それはここでも発揮されている。事実尊氏は怨霊鎮魂を数多く行なっている。幕府の財政が傾いてしまうくらいにね。


 燈明寺畷という水田地帯で自害に追い込まれた義貞の遺骸は、8名の時宗の従軍僧によって称念寺というところに埋葬される(首は唐櫃に入れられて京都に送付されて獄門にされた)。
 この、時宗というのは鎌倉末期から南北朝時代に活躍した存在で、従軍僧侶として実際に戦闘に参加することもあったが、敵・味方関係なく弔ったことで知られる。阿弥(あみ)とも言う。
 肩書きとしては従軍僧侶なのだが、多芸である為語り部をしたり、戦場で少し余裕が出来たら歌や踊りで慰安を行なったりもしていた。


 全国遊行する為、営業トークとして歴史の中から人物(主に敗者)を選んで話に花を添えて語った。勿論自分が実際に従軍し、戦場から持ち帰った話をすることもあった。でー、実はこれが重要。
 戦場から持ち帰った情報は語られたりした他、書き残されもした。それを執筆(しゃひつ)というのだそうだが、個々人が持ち帰った、いわば全体像からすると継ぎ接ぎだらけの執筆をまとめて完成形に近い形態にしたものが『軍記物語』と言われるもの。


 ではここで代表的な軍記物語及びその性質を含むものを上げてみようか。『』は省略。
 平家物語保元物語平治物語太平記吾妻鏡将門記陸奥話記、承久記、義経(ぎけい)記、曾我物語。
 んー、まぁこんなものであろうか。んで、作者が明確に分かっているものってありますか?

 

 義貞といったら忘れちゃならないのが匂当内侍(こうとうのないし)との恋愛譚。現在の感覚だと義貞のヘタレ度アップの材料にしかなっていないが、当世の感覚で考えるのであれば哀惜の情と鎮魂の目的を持って『太平記』に長めに挿入されている。
 何故にそうなるかというと、恋を嗜んだり、それを和歌(うた)に出来るということは武将として心配りが出来、かつ格が高いことになるからである。つまり、このエピソードを挿入されたのは、「言われているほどヘタレじゃないよ!」という、作者陣の一人の意向。しかしながら現在の感覚においては、却ってヘタレだという印象を持たせる偉効となっている。
 ついでに武士と恋愛の話でも取り上げられることの多いエピソードでもある。 

 

 徳川家康新田義貞の末裔を自称しているのは、徳阿弥という人が新田から三河へ行き、その地で松平の婿となったことが始まりだそうだ。
 阿弥は室町幕府に組み込まれ、同朋衆と名を変え生き残る。

 

 歴史でいう敗者である南朝方が再び歴史の表舞台に現れ始めたのは江戸時代中期の頃。明治時代以降、政府が背後に立ってまで押されたのは、長らく武家に押しやられていた天皇の威厳や存在を取り戻す為に、目に見える形でピックアップされた。平たくいうと利用されたに過ぎない。

 

 やたら長くなったが、新田義貞のまとめはこれにて。一体何ヶ月かかったやら(滝汗)。まだ自天王が残っているんだよね・・・・。要領は悪いし、説明は下手だし、文才はないし、もうどうのしようもないわな。言うまでもなく、レポートと小論文の試験の成績はいつも悪かったよ。もう目も当てられない。

 本日のお茶。
 その1。

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 国産紅茶と4種のカヌレの盛り合わせ♪

 

 その2。 

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 お茶は?で、お茶請けは栗入りファンダンショコラ。