昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友

日がな一日世界の傍観者となって独り言をのたくった跡

最古の栗と最古の刀剣書

 共に最古の記録が遡りましたな。

 

 栗は縄文時代には既に栽培樹が存在していた。日本人とは古~くからのお付き合いがある食材(!?)の一つ。建築材としても非常に役に立つのだが、栗の木って病気に弱いんだよね。建築材としての工程を経ると目を見張る強靭さを具えるようになる。恐るべし(←主語は?)

 

 して、最古の刀剣書は今まで室町時代のもの『銘尽(観智院)』というのが最も古いとされていた。

 今回佐賀県の県立図書館でそれよりも更に古い、南北朝時代の『銘尽(龍造寺本)』が見つかったとの事。龍造寺家文書から見つかったので『銘尽(龍造寺本)』。

 こういったものの所持者は、将軍家周辺など極一部に限られていた。

 この『銘尽(龍造寺本)』は訴状の下書きに書かれており、その訴状に観応ニ年(1351年)とあったそう。

 

 ・・・・観応か。足利の将軍(足利尊氏)と副将軍(足利直義)が全国を巻き込んで喧嘩しとって、その間九州では南朝北朝・第三勢力(足利直冬)の三つ巴戦やってたんじゃあなかったっけかなぁー?

 地元領主の龍造寺家、当時は家政という御仁だったそうなのだが、その時は足利直冬に従っていたと。で、日本中世史の研究者である吉原弘道さん曰く、原本は鎌倉時代に成立し、その写本を持っていた足利直冬から家政が書を借りて書き写したのでは。と推している。

 

 足利直冬の事を知らない人にとっては「?」な話だが、直冬は尊氏の次男坊。マリッジブルーが引き起こした一夜通いの結果生まれた庶子とされているが、「どうしようコイツラ・・・・」というレベル(全国レベル)の親子喧嘩を展開している(後、足利直冬VS足利義詮という全国規模の兄弟喧嘩に繋がる)。そこまで相互徹底して憎悪し合った理由ってナニ!?正に扱いは不倶戴天の敵。

 しかもこの関係は、以下を下地としている。

 

 同母兄弟の尊氏と直義(1~2歳違い)、まぁ滅茶苦茶仲がいい。のはいい。性格など正反対に近い。

 滅法戦に強いが豆腐メンタルな尊氏。のべつまくなし手を出しては種の後始末が出来ない。

 ツッコミどころ多いくらいに戦に弱いが、鋼鉄メンタルな直義。その時代にしては珍しく、妻は一人のみと決めている。

 直義には夭折した実子の他、三人の養子がいる。一人が尊氏の七女(夭折)。一人が一時的に養子になった四男(足利基氏)。そして一番始めに養子になり、最も長生きしたのが足利直冬

 尊氏が直冬を実子認定峻拒した後養子としているらしい。実父憎しではあったが、養父には非常に心砕いていたようだ。

 

 直冬を養子にすることに関して、それに言及した文書なり日記なりは自分は見た事はナイ。

 尊氏と直冬は、見た目もそっくりだったという説もあるが、「直義死んだら俺生きている意味がない!」といって後醍醐天皇の命を無視して戦に破れた弟を助けに行っちゃうし、自分よりも弟に神仏の加護をと願ってしまう。

 まぁ言わば最愛の弟が、不倶戴天の敵とみなしている存在を受け入れ、相手もその愛情に応えている姿を見るのって、どんな気分だろうかねぇ?

 それが引き金になって、観応の擾乱という名の兄弟喧嘩終了後、尊氏は自らの手で直義を毒殺したとも・・・・。

 

 何かタイトルと乖離してきたな。

 ま、ここでやめる。

 

 本日はお茶をしていない。