情報を得て、興味が湧いたので往ってみた。
ちなみにこの展示、武家の都鎌倉における茶の文化というのが副題についている。いわゆる武州茶の文化史ってとこだろうか?もしくは茶道以前の茶の文化の紹介。
限定的な武州茶となると、かつては海外に輸出するほどの生産量と品質を誇ったものを指す。現在はほぼ絶滅したと言える。何故なら生産地が現在の世田谷区周辺だからだ(戦後暫くは僻地とか田舎と呼ばれていた場所)。
お茶の一大生産地というと現在では静岡だが、江戸時代に入るまでは狭山だった。それが静岡に取って代わられたのは家康の影響だろうね。代わりにお茶の供給元+食糧庫的な存在になった。家康の影響で江戸の食文化はかなり駿河の影響を受けているとも言える。以前土御門泰邦と徳川八代将軍と和菓子の関係を書いたので、機会があったら再度上げてみようかと思う。
キリないんで、いい加減本題入ります(汗)。
日本にお茶が入ってきたのは何を隠そう仏教の影響です。奈良時代には既に入ってきていたし、実際に奈良時代の仏教関連の儀式を行う際に天皇(誰だか忘れた)が振舞ったという記録が残っている。
日本に伝来した仏教というのは、発祥した国から通ってきた道の宗教や土着信仰やらを取り込んで原型とは異なる形となっている。更に日本に着てから産土神信仰や土着の神などとも結びついて、奇妙奇天烈摩訶不思議にして複雑怪奇な状態に陥る。
なので、平安時代には宿曜師(すくようじ)に陰陽師(おんみょうじ)、呪禁師(じゅごんし)など特に違いのなさそうなものが複数存在する。ちなみに陰陽師のみ官僚と市井と分かれる(宮中に 呪禁師の位がないわけじゃあないが、浸透せずに早々に廃れたと見える)。
先日行った鳥獣戯画展で、高山寺は日本最古の茶園を持つということを知ったのだが、創始者(?)は初代寺主の明恵さんらしい。栄西さんは持ち帰った茶樹(?)と栽培方法を明恵さんに教授し、高山寺で育成し始めたからとか?ただ、これ。栄西著の『養生記』だったか?を読むと始め宇治に植えて、その後高山寺にもたらしたとある。
して、平安時代になると寺院の他に貴族が私営の茶園を持ち、自給をしていた人達もいたという。存在で言うと味噌みたいなもんか?当時贈り物として使われ、貴族ですらも憧れの的だったらしいからな。
仏教と茶が密接に結びついているのは、神仏への供物に茶を用いられたからというのもあるが、お茶が薬として扱われたというのや眠気覚ましに用いられたというのも見逃してはならない事実だろう。
一言で仏教とまとめてはいるが、お茶の使い方というのも密教と禅宗では異なり、日常的にお茶を用いるのが禅宗。修法など人が集まる時に大量消費するのが密教。
禅宗でお茶を持ち込んだ代表格は栄西。密教でお茶を持ち込んだ代表格は空海と最澄(特に前者)。
当世お茶の淹れ方は二通りあり、一つは煮出す方法。もう一つは点てる方法(茶道の抹茶)。公的な宗教だった密教は前者を、私的な信仰として認められていた禅宗は後者をそれぞれ用いていた。
自給していたお茶も、普段は社務で忙しく手が回らないため、日陰が選ばれて植えられたそうだ。結果、製法がかぶせ茶と同じになるので苦くないお茶が作られることとなった。
そんなことと平行して、展示の始めの方は、誰が伝えたとかお茶を供物として扱った儀式の汲み方の図などが紹介されていた。掛け軸にされた像は焼けて黒過ぎて見辛かった・・・・・・。
金沢文庫の称名(しょうみょう)寺の史料が多かったのは、鎌倉を語るに当たって外せない場所なのだからだろう。幾度か展示を見に金沢文庫に行ったが、一部除いて裏山も楽しかった。坂の上にあるだけあり、頂上の八角堂(?)から見える景色は良い。
庭園もオススメだが、個人的にはもっと水が綺麗であればなぁと思う。
して、茶があれば茶道具もあるよね。ってことで、唐物や国産の天目や茶壷、茶臼などが展示されていた。中にはフィリピン方面などから来たものもあった。
石臼を使ったことある人は分かると思うが(←問いかけがおかしくないか?)、使っていくうちに磨耗してそのうちすり潰せなくなるのだが、その後は食料をすり潰す用のものに転用されていったとのこと。だからというわけではないが、室町時代は粉食文化が花開いたと言われる。すり鉢が一般に普及したのもこの頃だったと思う。
ここで気になったのが、展示品の殆どが出土品だったということだ。戦乱の痕跡ってやつだろうか。
お茶を取り扱ったものとして、『太平記』や『尺素往来(せきそおうらい)』等も展示されていた。但し後者は期間限定。
『尺素往来』は室町時代中期に成立したもので、『庭訓往来(ていきんおうらい)』と並んで当時の教科書的な存在といわれている。実際に現在のお茶請けの原型や、郷土料理の原型となるものが掲載されている。山梨名物にほうとうがあrますが、あれだって元を辿れば唐菓子だ。
羊羹が伝わったのもこの頃なのだが、当時のは甘くなかったそうだ。まぁ、羊の羹(あつもの)だからねぇ。羊の他にも魚や猪など様々な種類の羹が伝わったのだが、生き残ったのは羊だけ。何故!?
当初から擬似料理として小豆を使ったのかは分からない。小豆を使ったのは恐らく魔除けも兼ねてだろうな。小豆ご飯のことを赤い飯(まんま)というくらいだし、赤は厄除け他、善悪はともかくとして強い力を持つ色とされてきているから。
話元に戻して、当世大流行した賭け事で「闘茶」という賭け事がある。あまりに熱中して所有地など賭けたもんだから禁止されたが、その勢い止(とど)まらず。何でかってーと、公家達が嗜むような調度や教養の一切が不要で、道具を絞ればいつでもどこでも出来た。
当時の武士って、字が書けないとか字が読めないとかいうのも多かった。教養は読み書きが出来た上で研鑽して積んでいくもの。いつ死ぬか分からん上に戦がなくなれば農民などに戻るのだから、そんなもの積んでも腹の足しにならん。
従って闘茶の手軽さや分かりやすさ、そして賭け事という中毒性を持ってある程度の階級までには浸透した。基本抹茶だが、抹茶が調達出来ないような人達は煎じ茶なんかでやっていたと思う。実際煎じ茶をベースに、抹茶を何摘みか入れるとか産地違いの抹茶を入れるとかいう闘茶もあったから。
闘茶を賭け事と書いたが、現在人の感覚からするとお茶当てゲームですね。
始めに本茶(正解)を飲んで、その後出されたお茶が本茶か非茶(不正解)かを当てる闘茶(出されたのは点てられた抹茶)や、ただ単にお茶の銘柄を当てるといったゲーム感覚のものなど幾度か経験していますが、味覚と嗅覚の鋭さはあまり関係ないな。と思った。
明らかにこれは非茶だなと分かるものは味覚と嗅覚で拾えるが、微妙なものは多分それらだけじゃあカバーしきれない。感覚は拾っていっているのかもしれないが、その拾い上げられた感覚から自分が反応する閾(いき)にあるかないかは鋭鈍に起因しないと思われる。何でかってーと、一緒に参加した喫煙者の方が正解率が高かったから(彼とは拾える嗅覚の幅はともかく、味覚の幅とベクトルは明らかに異なる)。
展示の後半はお茶入れとして使われた香合などの展示が続く。
ここで気がつく人は、茶道以前のお茶の道具と室町時代に成立する香道の道具がよく似ていることに気がつくかと(てか、まんま)。
展示には含まれていなかったが、この400年後、中国からインゲン豆や西瓜と共に中国から禅宗だが絢爛豪華で奢侈な黄檗(おうばく)派の隠元和尚(寒天の名付け親)がやってきて、煎茶道なるものを日本に根付かせます。ついでに自分はこちらも経験済みです。
・・・・・・何だか展示とはあまり関係ない方向に行っていますが、以前レポしたチョコレボ程暴走はしていないんで、御海容下さい<(_ _)>
本日のお茶。
お茶は抹茶入り玄米茶。
お茶請けはシュークリーム。横浜の浦島太郎本舗さんだったかな?
お茶その2。
お茶は伊勢最上級煎茶・月光。
お茶請けは石川金沢市は森八さんの流水。